7月29日 東京芸術劇場にてMartin Zimmerman のパフォーマンスを見に行った。久しぶりに東京芸術劇場でのパフォーマンスをみた。以前来たのは5年前くらだったが、印象がかなり変わった。
舞台を見る人で賑わう東京芸術劇場
以前は大きい劇場が多く、オーケストラや固い感じのパフォーマンスしかやらない冷たい雰囲気があった。今回は、たくさんの人が、各公演が上演前に、バーやレストランで食事を楽しんだり、公演のパンフレットを見ていたりなど、ざっくばらんな賑わいがあり、中央にあるインフォーメーションでも、スタッフの人が忙しげに来ている人を案内していたりなど、劇場全体が賑わっている感じがあり、居心地も良かった。また何か面白そうな公演があったら見にきてみたい。
舞台装置を巧みに使うノンバーバルパフォーマンス
ソロパフォーマンスで、しかも言葉を使わないパフォーマンスだった。舞台の上に、人が乗れるような大きな長方形の木枠を置いて、マルタンはその中に入ったり、外を開いたり。その木枠は変形して、ひし形になったり床に折りたたまれたりして、マルタンと一緒に動く。
マルタンは、木枠の内と外を歩き回り、時々止まっては、ブツブツと独り言を言う。何か自分の中の葛藤と問答しているようだ。
この作品のプログラムに、マルタンの言葉だ。
“自分のことを思い出そうとはしていない。
世界のことをよく理解しようと、きっかけ探しや情報収集にあけくれることはもうやめた。
他人が何を考えているのかを知ろうとするのもやめた。
周りに合わせたり、自分が快適だと思う場所を探したりもしない。‥”
‥自分らしさを深追いせず、誤解されたら、そのままに。‥
僕は飛ぶこともできない。時が来るのを待つ、物が僕を見つけてくれるまで…”
その様子は、何かいろいろと自分の中にあるもやもやしているものを吹っ切ろうとして、自分のあるがままでいようという覚悟が感じられる。それは”無”に近い感覚だろうか。
舞台装置の木枠は現代アート
舞台の上にある大きな木枠は、舞台美術の仕事をしていたマルタンによって、精巧に作られていて、マルタンの内面を表す現代アートのようにも見える。マルタンの、作品のコンセプトはこの木枠と彼のパフォーマンスに現れているのである。
このパフォーマンスが、なにかメッセージを観客に投げかけるものではなく、彼の心理的な葛藤を表すコンセプチュアルアートとしてみる見方もある。
葛藤し続けるマルタンの心理は吹っ切れるのか?
一方で、持っている旗のトッテを、体に押し付けると引っ込んだりするのを、かたや、顔に押し当てて、お客さんのウケを狙うパフォーマンスも面白かった。さらに、ショーの最後には何度も出てきてお客さんに手を振ったり愛嬌を振りまくのも、観客との一体感があって楽しい時だ。
そういう彼のパフォーマンスを見ているとやはりまだ、他人の言うことや、世界を機にする気持ちがあって、気持ちが揺らいでいる感がある。その葛藤が彼のパフォーマンスの基となっているのではないだろうか。
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