ニューヨーク州立大学 ブロックポート校へ
大学をいくつか探した中で、ニューヨーク州立大学のブロックポート校、テキサス大学 オースティン校、カリフォルニア大学 ロサンゼルス校のコースが興味深かったので、願書を請求してみた。
大学側とメールのやり取りをして、結局ニューヨーク州立大学 ブロックポート校の舞踊科に願書を出すことにした。
トフルの点数をクリアして、願書を提出。通知が来たので、オーディションを受けて、修士課程に入ることができた。
ブロックポートは、ニューヨーク州の北のほうにあり、カナダの国境近くの小さな町で、大学しかないというようなところだった。
不安だったのは、車が主な交通手段だったので、買い物に行くにもどこに行くにも数少ないバスで行くか、だれかの車に乗せてもらわないといけなかったことだ。
修士課程の個性的な同級生
ニューヨークの生活に慣れていたので、そんな慣れることができず、半年ほどブロックポートにいた後、少しでも交通の便利があるロチェスターに移った。そこから毎日1時間かけて大学に通ったが、同じ修士課程の黒人のダリルというゲイの人も同じようにしていた。
修士課程ので一緒だった人の年齢は様々だった。40代くらいの子供から大人までのダンススクールを開いているという地元の人もいれば、大学を卒業したばかりの学生もいた。
ロチェスターから一緒に通ったダリルは、ニューヨークのミュージカルで踊っていた人でダンスも上手いがとても頭の回転の早い人だった。
通学のバスの中で、しゃべりっぱなしで、その話す英語が早いので、聞き取るのも大変だった。「アキコ、わかるかい? 僕のダンスは…」と話し始めると止まらない。
私も色々と話そうとしていたが、とても敵わなかった。授業のことでも色々と助けてくれて、親切で面倒見のいい人だった。
ダリルとは、フェースブックで友達なので、今どうしているのかみてみたら、ミネソタ大学の助教授になっていた。修士仲間でも優秀だったので、納得である。
ディスカッションの多いクラスでも奮闘
コースには、ジャッキー、デービスとビル、 エバンスというラバン系の振付の先生がいて、その先生のクラスを受けた。
そのほかに、コンテンポラリーダンスクラス、バレエ、振付を実技のクラスとして、ダンスフィルムのクラスも取り、映像制作も勉強した。
ダンス研究のクラスでは、ディスカッションも多かったので、クラス自体はとても活気があった。
何も発言しないでおとなしくしていると、先生に「アキコはどう思いますか?」と名指しされてしまい、クラス中ぼーっとしているわけにはいかなかった。
特に意見があるわけでもないが、何か言わないと、”クラスに参加していない、みんなの話し合いに協力的でない”とみなされてしまい、変な目で見られた。
なので、「私は〇〇さんの意見いいと思いけど、それに加えて‥」など言い方を工夫したおかげで、みんなの見方も普通になってきた。
都会の人よりもみんな親切で面倒見が良く、フレンドリーな人が多かった。私は、ダンスの創作のことばかり考えていて、あまり学生生活を楽しまなかったが、もっと楽しんでおけばよかったとも思う。
同級生たちと
本帰国へ
修士課程は科目だけ履修して論文は書かずに、帰国することにした。修士課程だけあって、エッセイを書くことの方が多く、自分の中でも、いやいややっている状態が辛かった。
アメリカ人の振付家(マースカニングハムやグラハムなど)のいろいろな振付の手法を研究するクラスは面白かったが、
修士課程の中心となっているリサーチ中心の研究には、興味が湧かず、振付などもっと実践的なことをしたかった。
そこで、いろいろ考えた末、コースを去ることにした。
その時の大学の先生や友人は、みんな魅力的で、とてもいい人たちと出会えたと思う。
彼らとは、いまでもフェースブックでつながっていて、時々連絡を取り合っている。
まとめ
ここで留学生活に終止符を打ち、日本へ帰国した。
本当に毎日色々なことがあったので、ブロックポートには2年半しかいなかったにもかかわらずもっと長くいたような気さえしている。
帰国してすぐは自分がアメリカナイズされていることに気がついた。
ダンスもアメリカナイズされていたと思うが、これから日本でどういうことができそうなのか期待していた。
コメント