前回、感情やフィーリングからではなく、いろいろなコンセプトでダンスを創作してきた振付家を紹介した。
今回は、自分の経験からその事を述べてみたい。
モダンダンス、コンテンポラリーダンスとの出会い
私が、モダンダンスについて興味を持ち出したのは、お茶の水大学の聴講生としてダンス解剖学を受け始めた頃だった。
その頃の私はバレエを子供に教えたり、先生の発表会や公演に出演したりしていた。そのためにも、バレエの解剖学を学んでおく必要があったのでロイヤルバレエメソッドの解剖学を学び、御茶ノ水大学のダンス解剖学の講義を聴講生として受けていた。
その御茶ノ水大学の舞踊科の授業に通っているときに、在校生がやっていたのがモダンダンスだった。そして、彼らのダンスを横目で見ているうちに、バレエと違う動きの表現を持つモダンダンスに次第に関心を持ち始めるようになった。
ダンスをやったことのある人向けのダンスがモダンダンス?!
その頃、モダンダンスというと小さい頃からやっていた人や何かしらダンスを以前やっていた人向けのダンスがモダンダンスというイメージが強かった。
というのも、高校の時の創作ダンスの授業では、「春」を表現するのに「『そよ風がそよそよ、』を体で表現してー」のような課題が出され、ダンスを創作しないといけないのだ。(少なくとも私の体験した高校の創作クラスはそんな感じだった)
なので、体で表現することやダンスを全く知らない私のような人は、棒立ちになってしまい、創作するどころではなかった。
ダンスをやったことのある人は、適当な振り付けを思い出し、「こんなのどう?」と言いながら振付を始める。
だいたいクラスではグループになって振付を創作するが、その時にダンスをやったことのある人が中心になってグループのみんなに教え、ダンスを練習する。そんな感じだった。
ダンサーには内面を体で表現できる素質が必要?
さらに、同じ時期に、舞踏が流行った。舞踏は、自分の内面に向かい合うことからダンスを創作して行く(それなりの訓練があることが後でわかったのだが)ので、ダンスを踊るには、創造性やそれなりの素質がないと踊れないものというイメージが強かった。
私にはそんな特異な素質はない。でも、ダンスは好きだし、なんとか続けたい。とそう思いながら、悶々としていた。
感情で踊らないダンスもある。
その頃、海外のダンスカンパニー、モーリスベジャール率いる21世紀舞踊団や、マースカニングハム舞踊団などが来日公演をしていたことこもあり、私は、海外のダンス事情にも関心を持ち始めた。英国のコンテンポラリーダンスにも興味のあった私は、コンテンポラリーダンスの学校ラバンセンターに留学することにして、無事入学、ダンスを本格的に取り組むことに意気込んでいた。
その授業の中に、ダンス振付研究のクラスがあった。もちろんラバンセンターなので、ラバンの動きの分析法を勉強する。その動作分析を用いた振付の課題として、
まず、頭(体のある部分)から動き出す。その頭が空間の上下、斜め、横、後ろに回り込むなどいろいろな方向に動くことで体の他の部分が続いて動き、何か面白い動きになるかもしれない。これが振付の課題の一部だ。そこには全く感情を伴わない。
また、ある時は、先生が、抽象画のような、線や円がランダムに描かれた絵を持ってきて、この抽象画に描かれている線や円を描くように、スタジオを動きまわってください」とダンサーに指示を出す。ダンサーが動いている時に、先生が「じゃあ、早く移動して、」や「そこで止まって、転がって。」など、先生が空間を描こうとするのだ。ここにも感情は全くない。
このように振付をする先生は、ダンサーに「〇〇に動いてみて」という指示を具体的に出し、さらにその動きを見ながら指示を出していった。
私は、そのクラスの先生に「動きに感情が入らなくていいのですか?」と聞いた。すると先生は、「感情のはいるダンスもありますが感情の入らないものもあります。」とあっさりと答えた。
私はその時はピンとこなかったし、感情が伴わないダンスなんて、どうなんだろう??と思っていた。だが、実際、かなり著名な振付家が感情を伴わないダンス作品を作り、ダンスの歴史にその名前を残している。
まとめ
ダンスを始めた頃の私は、ダンスは小さい頃からやっていないと無理というイメージや、ダンスを踊るには、自分の感情を出せないといけない、そのためにはそれなりの素質がないとできないなどの固定概念があった。
ラバンセンターで色々とダンスを勉強したおかげでその固定観念がなくなっていった。コンテンポラリーダンスには、こうしたら面白いんじゃないかという好奇心やこれをやったらどうなるんだろうという自由な発想からダンスを踊り、創作する面白さがある。次回は、感情を否定したコンテンポラリーダンスについて紹介したいと思う。
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